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2010年4月26日 (月)

狂ひ女 オフィーリア

Dominico Tojetti &Jean baptiste bertrand

オフィーリア
ドメニコ・トジェッティ &ジェイムズ・ベルトラン

オフィーリアを4年前に記事にした楓は、女の子らしくっていいわぁと羨ましい気持ちでいました。

ところが表向きは可憐なオフィーリアの肖像画で飾り、可憐の裏側の無能な性質をテキストにしている記事なので、なかなか本質をついていると思った。

昨日、おとといとランボーのオフェリアの詩、ミレイのオフィーリアの音楽の記事に、なかなか現代風なオフィーリアの作品がアップされていた。

今回は、楓の記事に使用されている肖像画のなかで、唯一わたしの趣味で許せるオフィーリアの画像を頂戴した。そして左側は私が発見した。

オフィーリアの肖像画、オフィーリアの歌や花言葉、そして王妃の言葉など、オフィーリアの百科辞典。

記事 楓のオフィーリア

アーサー・ヒューズ/ジョン・エヴァレット・ミレイ
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス/フランシス・ダンビー
サー・ジョゼフ・ノエル・ペイトン/ヨゼフ・クロンハイム
リチャード・ウェストール/ジェームズ・パーカー
ジョルジュ・ジュール=ヴィクトール・クレラン
コンスタンチン・エグロビッチ マコフスキー
マドレーヌ・ルメール/ベンジャミン・ウエスト他

Mortdophelie_jamesjeanbaptistebert

ジェイムズ・ベルトラン

そしてハムレットに関してですが。これはオフィーリア周辺を知るために必見。

記事 シェイクスピアの有名な人物たち 水彩から

記事 詩は有声の絵、絵画は無声の詩 ハムレットから 

さらに、ランボーのオフィーリアの詩を添えて。中原中也訳の「狂ひ女」というテキストのレトロな表現が気に入りました。

記事 モダンヌ・オフィーリア ランボーのオフェリア

KAFKAはさらに現代的なオフィーリアに、オフィーリアの音楽で。その記事にはやはり「男性に守られたい女性の一人」とあった。

記事 ミレイ 「オフィーリア」の音楽

さらにさらに、オフィーリア・コンプレックス、オフェリア幻想、女神フローラ像に及ぶ。これはかなり共感した。

記事 オフィーリア 水の精、花の女神

Jww_ophelia_1889

ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 「オフィーリア」1889年

楓の「オフィーリア」を読んでもらえれば花ことばもわかります。王妃の言葉もあるので参考にしてください。

手前の黄色いパンジー(思い)、まわりには雛菊、オフィーリアの下半身には紫蘭がはっきり描かれている。やっぱり「花の女神フローラ、豊饒の女神」だと実感します。

左奥には小鳥がいるけど、ロビン(赤い胸の駒鳥)じゃなさそうです。柳とかミレイとほとんど同じ草花を描いているよう。

世紀末の絵画作品にとどまらず、記事「オフィーリア、水の精、花の女神」から社会現象や風潮の偶像でもあり、音楽や文学作品、詩にも影響していますが、同じ時代のフランスではあまり及んでいない。

プルーストの「失われたときを求めて」にラファエル前派も引用されているんだけど、、プルーストが好きなサンザシの花が、バーン=ジョーンズの作品に描かれていることで、その引用が多く、ラファエル前派が描いた「オフィーリア」への言及はなかったはず。

ユイスマンのさかしまには、ミレイの名はでてくるけれど、別な作品だった。

19世紀のなかでオフィーリアを下敷きにした文学や詩(ランボーとか)があるけど、日本では漱石、小林秀雄らがいた。坪内逍遥が「ハムレット」を翻訳。

Ophelia_alexandrecabanel

アレクサンドル・カバネル「オフィーリア」 1883年

(カバネルの「ヴィーナスの誕生」の印象が強くて、オフィーリアはどうなんだろうね。)

夏目漱石は「草枕」では幾度かオフェリアを登場させている。溺死の「どざえもん」を漱石は強調しているのだけれど、揶揄をしながら漱石自身が強い関心を示しているのがわかる。

小林秀雄の「おふえりや遺文」はもう手元にないので印象だけになりますが、当時の英国の風潮のひとつオフィーリア・コンプレックスを、ヨーロッパの伝説とミックスさせたようで、それを日本的な解釈のもとに書かれていたような気がする。

漱石も小林秀雄も貴族出のオフィーリアの死を、どこかの町娘、商家の娘などの匂いを漂わせるので幻想的で高貴な死のイメージがわかない。耽美主義、ロマン主義の要素が伝わってこないのです。

英国のジョン・ラスキンなんかは「ごまとゆり」で、オフィーリアはシェイクスピアのなかにでてくる女性たちでは最下位を示している。この人はフランスのプルーストに影響をあたえた人なのだから、プルーストの作品に「オフィーリア」の比喩がないのかも。

ミレイもオフィーリアの人物像にあてた花言葉は「残念」なものばかり。

わたし自身もオフィーリアの儚さや可憐さが、病的な神経と無知な少女にしか置き換えられない。困難に立ち向かっていく清さと潔さがない。だからミレイは表面を美しく描いた。そして愚かな人間性を花で揶揄した。

だからわたしは「オフィーリアに感動がもてなかった」、ということを再確認したわけです。

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