マリー・アントワネット 記事紹介
このマリー・アントワネットの肖像画は、どこかのクラブのマダムのよう。
結構マリー・アントワネットの浅はかさと奔放さが好きな私だけれど、どこか「すれっからし」を感じさせる肖像画も多い。
優雅で身のこなしは誰もがうっとりすると賞賛されている。この証言は間違いないと思う。
私が彼女に対する評価は、古いしきたり、自分の役に立たない宮廷人、そして自由を制限するものを、ばっさり切るなど向こう見ず。これが浅はかさだ。宮廷の革命と政治への介入になるから。
もうひとつは、敵国に情報を流すなど、自分の立場に誇りをかける凄み。王妃としての誇りではなく、王妃になるべくして生まれたことの誇り。だから国民が犠牲になることさえ厭わない。これが彼女の処刑の罪で、オランプ・ドゥ・グージュが指摘していたことだった。
そして些細な中傷やデマに対して鼻にもかけない。これは金持ちけんかせずといった風な印象。
記事 マリー・アントワネット
この記事のなかで、「ルイ16世に愛人がいたら・・・説」に、王権神授説から社会契約論の時代に差し掛かったルイ16世期に、どうしてそういう説を唱えるのかということが書いてあって、ほんと、その通りだわ。寵姫は神から授けられたものじゃないからね。批判を受けて当たり前。
masaちゃん、何の本読んでるのぉ。すごいじゃん、ルソーを取り上げちゃって。
で、「史実と歴史と歴史小説と小説と漫画」がごっちゃになっていて、伝説や付け足された美談などを本当なの?って思っている人は次の記事を読んでみるといいです。
私のおすすめ記事
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記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
記事 マリー・アントワネット フランス紀行から
記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
このジャン・ゲリンの「マリー・アントワネット」は、制作年、所蔵先など不明だけれど、どうこの貫禄。王妃の貫禄じゃぁないね。
娘のマリー・テレーズはどういう母親像を真実持っていたのかと考えるときがある。
マリー・テレーズの回想録は全文を翻訳されいるわけじゃない。
MAKIさんの的を得た「マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達 」の記事。
「自分で身だしなみを整えられる環境にあったのよ。マリー・テレーズも書いているけれどね。ただ、それをできなかった弟に驚いたと思うの。
8歳の頃のマリー・テレーズは、きっと一人で出来ていたことで、ルイ・シャルルがそれをできなかったことに驚いてしまったのでは。
たぶんね、ルイ・シャルルは8歳でも、一人で服を脱いだり着たりできる子ではなかったと思うんだよね・・・。」とある。
たぶんMAKIさんは、「ルイ16世幽囚記」を読んでいたんだわ。あの部分は訳されていないから。
「フランス革命の目撃者たち」(ジョルジュ・ベルヌー、サビーヌ・フレシエ、訳河野鶴代)には、MAKIさんの予想どおりのことが書いてあった。
「弟は性格からして不潔で怠け者でした。というのも弟は、自分の身体の面倒をもっとみることだってできたはずですから。」
シモンが1月からコミューンの議員になることになり、タンプル塔を去ることになったからだ。(彼はアントワネットの裁判でルイ・シャルルに証言をさせたが、ルイ・シャルルに対しては、愛情を持っていたようです。)
そのシモンが去って、身の回りの世話をしてくれる人がいない。食事を運ぶ番人にも頼まない。
ただ、ゴマンという共和制の男が来てからは、病気で死ぬまでの間は清潔だった。だから、ルイ・シャルルは貧民のように排泄物と害虫の中で亡くなったわけじゃないよ。
そしてマリー・テレーズは、マリー・アントワネトットが諸外国と内通しているのも知っていたみたい。
「私たちはお母様が外国と通信していたことで責められているのを知りました。私たちはすぐに筆箱や鉛筆を捨てました。」(フランス革命の目撃者たち)
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年10月
記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
もう少し教養を増やしてから書こうかなって思ったけれど、みんな私が知りたいことや同感できることを書いているので、上記の記事も参考にして。
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